シェアする落語 第16回 桂三四郎』を開催するにあたり、事前に三四郎さんにインタビューをさせていただきました。集客用のページに使おうと思ったのですがあっという間に予約が集中してしまいましたので、一般には公開せず、一部をご予約頂いた方に原稿の一部をメールでお送りさせていただきました。
せっかくですので、こちらでインタビューの全文を公開いたします。
取材は四家正紀が担当し、文責も四家にあります。
※前回(1)

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●劣等生の見習い修行 

名前がついてからは見習いとしての修業です。これはきつかった。24時間拘束で働いてました。
 

まず車の運転。兄弟子が運転手をやってたんですが「三四郎にもやらせなあかん」と。
大学卒業前に教習所行って免許を取ったんですが、実際に運転したことはないわけですよ。それも全然知らない梅田の道とか。師匠の車はでかいでかいセルシオで、車幅あるし長いしパワーあるし、月に2回くらいぶつけてました。そしたらもう運転させへんと。
 
毎日毎日、あちこち師匠について動きました。朝は10時と割と遅いんですが、師匠迎えに行って、それからテレビ局、「新婚さんいらっしゃい!」の収録行って、だいたい昼には一本は打ち合わせが入って、夜には落語会です。

まず、荷物がめっちゃあるんです。準備が大変。師匠はとてもきっちりした方なので、例えば化粧前のセット、整髪料や櫛の並べる順番や向きが全部決まっているんです。これをきちんと収めないといけない。

あと音源も管理して持ち歩かないといけない。師匠の落語会ではSE(効果音)をたくさん使います。当時、師匠の持ちネタが150くらい。噺ごとにSEも出囃子も毎回全部変えるんです。小道具も使うし、普通の落語家さんと落語会の形態がまるで違う、覚えること、準備することが多すぎる。こういう落語会の裏方も弟子の役割です。もうずいぶん失敗しました。
 
役立たずの、落ちこぼれの弟子でした。それまでバイトでもまともに働いたことがないし、遊びたかった。芸人は破天荒なほうがいいと思ってたし。先輩たちの武勇伝を聴いたそのままに鵜呑みにして、隙を見て遊んでばっかりいたんです。朝まで遊んでそのまま仕事行ってミスもしまくる。遅刻もする。3年間に4回丸坊主になりました。

最後にはもう師匠に口もきいてもらえなくなって。しまいには師匠のお付きから外されて。お前は事務所におれと。でも厳しい師匠ですけど、クビにはしないんです。死刑宣告はない。厳しいから、やめていく弟子はいましたけど。
 
そんななかで、師匠が林家正蔵師匠の襲名披露で上野の鈴本演芸場に10日間出演することなりまして、このときはお付きとして僕が呼ばれたんです。一緒に来いと。初めての東京の寄席です。このとき師匠に言われたのは「向こうの前座がどんな仕事をするかよく見ておけ」ということ。なので必死に観察しました。こんな感じなんやと。


●繁昌亭スタート 座付きの前座頭に

鈴本出演からおよそ半年後の翌2006年9月15日、天神天満繁昌亭がいよいよオープンします。

僕は師匠から「とにかくずっと繁昌亭におれ」と言われまして、修行明けの翌年4月までほぼ毎日楽屋に入って働いてました。繁昌亭の初代・前座頭(東京の「立前座」に当たる)ですね僕は。掃除して、呼び込みやって、太鼓叩いて、お茶出して、何でもやりました。
 
掃除の仕方からお茶の出し方まで、繁昌亭の楽屋仕事のマニュアルは全部僕が作りました。鈴本で勉強させてもらったことを元にして、こしらえたんです。

他に居場所がなかったし、頑張りました。天神の商店街は長くてにぎやかで有名ですけど、当時はまだ繁昌亭に近いあたりには人通りもお店も少なく寂れてたんで、人通りのある交差点のところまで出て呼び込みやりました。そしたら、だんだん繁昌亭のほうへ人の流れができてきたり、店も増えてきて。
 
繁昌亭に入るまではほとんど師匠の仕事ばかりで、他の一門の落語家とは接する機会がありませんでした。一門のなかでさえ「桂三四郎?あんな弟子おったんや」と言われるぐらい。それが繁昌亭の楽屋で毎日働いていてたら「あいつ、毎日おるなあ」「ずっとおるなあ」 「あいつすごいな」 と、落語家の間で一気に顔が広がりました。

面白いもので、厳しい師匠の下でずっと修行していたので、同じ調子で働いていると「あいつめっちゃ優秀やん」って(笑)。それまで劣等生扱いだったのに。やっぱりうちの師匠は厳しかったんですね。
 
寄席の楽屋を最初から立ち上げた落語家はたぶん僕一人ですね。
(つづく)

(取材2017/03/19 取材・文 四家正紀 写真 常山剛)