シェアする落語 第16回 桂三四郎』を開催するにあたり、事前に三四郎さんにインタビューをさせていただきました。集客用のページに使おうと思ったのですがあっという間に予約が集中してしまいましたので、一般には公開せず、一部をご予約頂いた方に原稿の一部をメールでお送りさせていただきました。
せっかくですので、こちらでインタビューの全文を公開いたします。
取材は四家正紀が担当し、文責も四家にあります。
※前回(2)
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●いきなり増えた落語の仕事

けれど、それまで僕、ほとんど落語やってないんです。

稽古はつけてもらってました。久しぶりに来た関西弁の弟子ということで古典をみっちりやれと。最初は兄弟子になった「つる」「動物園」「犬の目」です。でもワキの仕事はやっちゃいけなかったし、ずっと裏方で忙しくて、 舞台に上がれない。 最初の3年間で5回くらいですよ。それも全部ネタおろしです。さっぱり受けません。次は半年後、また滑る。この繰り返し。自分でも稽古してましたけど、やっぱり人前で喋らないと。

まず覚えてから師匠に見てもらうのがうちの一門では基本です。1年目にあまりにも受けなくて落ち込んでから、師匠の創作落語のなかから「お忘れ物預り所」を、師匠から直接習いました。師匠もヤバいと感じて、一門では初めて差し向かいで稽古をつけてくれたんです。これが受けなかったらもうやめようかなと思ってました。そしたら受けて。良かったなと。
 
そのうち繁昌亭で昼席10日間、開口一番やらしてもらったりしましたが。それを入れても3年間で20回くらい。もっとも舞台に上がらずに世に出た落語家です。
 
上方落語には階級としての「前座」 はないです。3年くらい見習いしてから独り立ち、まずは前座の出番(開口一番)からという感じです。繁昌亭で頑張っていたおかげで、3年勤めあげて年季が明けたら、いろんな兄さん方から、いろんな仕事をもらうことになりました。

でも、やり方もルールも分からない。引き出しないしネタを練る時間もなくて、出番の15分を持たせることができない。とにかく修行中に作ったまくらでなんとかしようと、手持ちのまくら全部喋って、その勢いで噺に入る。噺のほうはいつも同じ。
 
あちこちの落語会の前座で出させてもらって。そんなに白けることはなかったですが、全部同じまくらで同じネタ。落語ファンからは嫌われていたと思います(笑)。僕が出ていった瞬間「また三四郎や、同じネタや」とパンフレット読み始める人がいたのを覚えてますもん(笑)。でも、それも無理ないと思いますよ。お金払って見に来てるのに毎回同じじゃ苦痛じゃないですか。でもアドリブでまくらを振れるほどの、腕も引き出しもなかった。
 
それにも関わらず仕事は増えましてねー。クルーズの観光案内も入れて1日6ステージやったこともあります。
 
新作は、見習い時代から作ってました。初めて作ったのは今でもやってる「17歳」。特に作り方を習ったわけではないです。ただ師匠が新作を広めたいと、月亭遊方兄さん・桂あやめ姉さんなんかを集めて勉強会始めて、師匠はマメだから冊子も作って、新作落語とはこんなもんで、最初は受けなくてもいいから取りあえず作れと書いてありまして。そのとき僕も作らせてもらって、これがたまたま受けたんですね。やっぱり新作やりたいなと思いました。
 
ただ前座で出ている限りは、新作はあんまり喜ばれなくて、2年間位ずっといろんな会の前座で出て古典落語をやってました。仕事はさらに増えまして、ルミネtheよしもと(新宿)での1週間のあとに京橋花月で1週間、それから繁昌亭とか。めっちゃ忙しかったんです。目立ってたし、いろんな先輩の落語家にかわいがってもらいました。でも自分の会はたまーにやるくらい。
 
そのうち林家染丸師匠の若手の会に呼んでもらえて、東京でいう二ツ目の感じでやらせてもらえたんです。年3回くらいこういう会があって、自分の作ったネタを掛けたら受け方が全然違うんです。もう前座の出番で出るのいややなあと。だいたい大阪の落語家は出世が遅くて、階級がない分、それぞれのポジションがグレーなんですよね。下手すると10年たっても鳴り物だけの仕事で出ている人もいます。
 
東京を意識したのは神保町花月です。お芝居に出たときに、客の受け方が大阪とはまるで違うと思ったんです。当時ちょうどお笑いブームが来ていて、連日満員です。まず客が若いし、受けるときにパーンと受ける。大阪の落語のお客さんはやっぱり年齢層が高い。「いつか東京に行きたい」って、そのとき思ったんです。
 
で、東京に出ることになったのは、実は笑福亭鶴瓶師匠がきっかけです。
 

●鶴瓶師匠に乗せられて強引に東京進出。いきなり苦境に

営業の仕事ガンガン入って、司会とか、一人で学校寄席1時間半とか、礼儀作法コミュニケーションに関する講演会とか。さらに「爆笑レッドカーペット」にも出て、大阪でもちょいちょいテレビに出てましたした。
品川よしもとプリンスシアターや新宿ルミネ、浅草花月での出番も増えて、仕事で東京行くことが増えました、週末は東京、みたいになってきて。
 
東京って、いろんなところから人が来ていて、みんな熱意がある。必死でやってる感じがありました。大阪はいい意味で柔らかくてあったかいんで、そこは一長一短だと思うんですが、僕はこういうピリピリしたところでやってみたいなと。

どうしても東京に行きたくなって。吉本に相談したら「いやいや、無理無理、なに言うとんねん」と、スパーンと一蹴されました。
 
そのころ、笑福亭鶴瓶師匠についていたお弟子さんがしくじって、代わりに鶴瓶師について動いていたんです。それまであんまりお話ししたことなかったし、もともと好きだったし吸収したかったんで、ずっとついていたんです。

そしたらある日突然、お酒飲んでるときに鶴瓶師匠から言われたんです「三四郎。東京来い!なんとかしたるがな! 」って。次の日マネージャーに「すみません東京行きます」って言いました。めちゃめちゃ反対されました。大阪で鶴瓶師匠のラジオ番組へのレギュラー出演が決まり、テレビもちょこちょこ出て、 せっかくいい感じで仕事が増えて、また新しい話も来ているのにって。
 
でも行きたかったんです。ここで指くわえとったら、もう一生行きたい行きたいと思って生きていかなあかん。結局、見切り発車。

吉本に許可もらうことなく、先に家、引っ越したんですわ(笑)。10月の25日。吉本には、そりゃめっちゃ怒られました。
 
若かったし、なんか根拠のない自信があって「東京行ったらすぐ売れるわ」って思うてました。入門してすぐ売れると思って、一度鼻っ柱を折られてるのに(笑)。ここで遠慮して東京行かへんかったら、俺はもう一生行きたい行きたいと思いながら生きていかなあかん、思うて。しまいには「しゃあないなこいつ。こいつは言うこと聞かへん」と、吉本にも渋々認めてもらって。

ところが、鶴瓶師匠に「東京に引っ越しましたよ」と言ったら「お前ほんまに引っ越したんか!」(笑)。えーっ!師匠がなんとかしたるって言わはったんやないですか。「そないなこと、言うたかなあ」って(笑)。「えーっ、もう引っ越してるけど?」。一門のお弟子さんに聞いたら「うちの師匠、飲んでて酒が焼酎ロックに変わったら「東京こい!」誰にもでも言うねん」(笑)。あ、ひっかかったーと(笑)。
 
すでに笑福亭瓶二兄さんは東京進出してましたし、その次に笑福亭べ瓶兄さんも僕の1年半くらい前に行ってました。

べ瓶兄さんレギュラーいっぱい持って大阪でめっちゃ売れまくっていたのに師匠にしくじって、仕事が全部なくなって。でも兄さんプラス思考ですね。いい機会やと東京に拠点を移したんですよ。「あー先に行かれた-」って思いました。まだ視界が狭いから「東京に若手上方落語家の席なんて一つしかないやろにー」って。あとで実際来てみたら、あっ、めっちゃ席あるーって(笑)。
 
以前、かわいがってもらっている桂春蝶師匠に目標は何かと聞かれて「東京行きたい」と即答したら、「うーん」って。「それは分かるけど、東京から出てくれと言われるために、俺は大阪で頑張るねん」言うてたのに、僕の1年後にあっさり東京に来て「めっちゃ来てるやないですか。どないしはったんですか」と聞いたら、やっぱり鶴瓶師匠に焼酎ロックで「東京こい。なんとかしたる」と言われたと(笑)。同じやー。あの師匠あかんですよねーって。まあ春蝶師匠はこっちで成功されてますけどね。鶴瓶師匠は「誰にでも言うてるわけではないで」「やっていけそうなやつに言うとんねん」っておっしゃってるみたいですけど。
 
東京に来たものの、鶴瓶師匠のラジオのレギュラーをいただいたばかりで、毎週大阪に帰らないといけない。お金がないから3000円くらいのJRの深夜バスを使うんですけど、身体は大きいのに座席が小さくて。 東京の道楽亭の仕事と重なったりすると、下手すると週に二往復半バスで移動。夜中ずっとバス乗ってて、朝に大阪着いて昼の仕事まで仮眠して、それでもう身体バッキバキですわ。くたくたになってから大阪の高座に上がってもキレが悪くて受けないんです。そんでまた自己嫌悪になって。 もうストレスで顔に湿疹ぶわーっと出て。

ラジオに出ても、鶴瓶師匠の番組だから僕のお客が増えるわけでもない。ただ鶴瓶師匠にガンガン突っ込んでたら、業界関係者はびっくりしたらしいです。「あんなことお前にしか出けへん」。

(つづく)
(取材2017/03/19 取材・文 四家正紀 写真 常山剛)