シェアする落語 第18回 三遊亭わん丈』を開催するにあたり、事前にわん丈さんにインタビューを実施しました。一部はご予約特典としてメール配信させていただいています。

せっかくですので、こちらでインタビューの全文を公開いたします。
取材は四家正紀が担当し、文責も四家にあります。

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●ミュージシャン時代の悪戦苦闘
生まれは滋賀県の大津です。
中学生くらいから、漠然と「人前に出る仕事」をしたいという願望があったんです。
地元の高校に進学して、大学受験の時にいろいろ考えました。
自分はたぶん東京に行くことになる。だったら学生のうちは離れたところに行こうと。
北海道か九州で迷ったんですけど、北海道はなんとなくお金かかりそう、あと寒そうで、それと受験科目の都合とかいろいろあって。それで北九州市立大学に行きました。
競馬好きだったので、大学の真ん前に競馬場があったのも良かった。

音楽は20歳から27歳までの7年間やりました。
入学して半年くらいして友人から電話かかってきて「滑舌良さそうだけど、ラップできる?」って。やったことないけどやってみるかって。
RIZEのコピーバンドはじめたんですけど、なぜかベースとドラムがフュージョン好きでカシオペアばっかり聴いてる。そんなのやっても一般の人に人気出ないやろ。だいたいラップいらんやろと。もっとキャーキャーいわれる音楽やろうとか、色々あって。結局レッチリみたいのやってました。その頃からプロ志望でした。

ボーカリストとしての実力は微妙な感じでした。
いろんな人に同じこと言われました「お前ラップはほんまにうまい、行ける。けれどメロディ乗せて歌うときはプロのレベルじゃない」。ラップだけやればよかったのかもしれませんけど、嫌やったんです。もともとサザンしか聴いてこなかった人間なんで、自分を表現する手段として「ラップだけ」というのは違うなあと。
だいたい、音楽も落語も、僕を観てもらうツールなんですよ。僕のために落語があるというような考え方なんです。音楽のときもそうでした。

ずっと音楽に打ち込んで、大学3年生の冬、実家の父親に「就職活動だと思って西日本ツアーやらせてくれ」と言ったのを覚えています。在学中から大学を卒業してしばらくの間は、ライブをやってもチケットのノルマがさばけなった。持ち出しになる分と、ふだんの生活費はバイトで稼いでいました。

でも、そのあとの2年ちょっとくらいの時期が一番きつかった。それなりに人気が出て、ノルマは捌けるようになったんです。でも顔が売れてくるとバイトがやりにくくなってしまって。北九州は狭い街ですし、もうラジオDJの仕事もしていたし。ノルマだけさばけても生活費やツアーの経費は稼がないといけない。

●音楽とギャンブルの日々から「ひとりEXILE」へ
なのでその頃は、ギャンブルで食べてました。パチプロだったし、麻雀も強かったし、競馬でも稼いでました。北九州って公営ギャンブルが全部あるんです。オートレースもあるし。
もう、相当稼ぎましたよ。競馬で***万、パチンコ・スロットで***万で合計***万かな。落語家になって、その時の年収をまだ抜いていないと思います。うまいんじゃないんですけど強いんです。

パチプロと言っても僕が打ってるんじゃないんですよ、ツアーに出ている間も儲けないといけないから、後輩に打たすんです。何番台と何番台と指定して、打たせて、ツアーのクルマの中から電話して、逐一報告させて「あー、もう出ないか、すまないけど帰ってくれ。じゃ2000円だけもろといてくれ」とかとか。

バンドマンって女に食わせてもらうかギャンブルで食うかしかない。人気が出て注目されても、誰がカネくれんねん、という時期でした。辛かった。
自分としても、音楽業界でやれるほどの才能はないことは薄々気が付いていましたけど、一度きちんと金儲けてみたかったんです。自分の手で儲けてみて初めて見える世界があるはずだと。

ミュージシャン生活の最後の半年間は、いろんな工夫して考えられる限りの方法論詰め込んで「音楽でちゃんとお金を稼ぐ」ことに挑戦しました。
バンド辞めてソロになり、ギャラ払ってバックバンドつけて、ひとりで曲作って編曲は自分でプロにお願いして、物販も手掛けて、ラジオのレギュラー番組も持って、番組の中でライブハウス業界を盛り上げるようなコーナーつくって、5組のバンドが週1回出演するライブイベントもやってました。いまの『成金』みたい。
ミュージシャンやりながら裏方もプロデューサーも全部やってた。つまりは「ひとりEXILE」です。

そして、やっと音楽だけで食えるところまで来たんです。月16万稼げるようになりました。これ画期的なことだったんです。
でも、もうこれ、ビジネスとして成立させるのは難しいなと。
当時はライブハウスを中心に活動してたんですけど、なんかいろいろ矛盾を感じてしまって……。だいたいなんでこんなノルマ払ってまでやらなあかんのか、とか。業界としてどっかおかしいんとちゃうか、とか。稼いだのはいいけど、結局いろんなとこにひずみが生じて、離れていく人間もいました。寂しかったです。

この前、当時お世話になった先輩に久しぶりにお会いして、言われました。
「一人だけ違うこと考えてたよな。あの頃はお前のやりたいことが、みんな分かってなかった。いまはわかる」って。

●音楽業界を卒業、芸能事務所に売り込み
で、そこそこ食べられるくらいには稼ぐことができたんで、もうこれで見たいものは見えたし、ここで辞めてもかっこ悪くないと思ったんです。
30歳になったらもうこんなの無理やし、なによりも、僕は裏方やプロデューサーの仕事より、客の前に立ちたい。企画したイベントが成功した時よりステージの上のほうが気持ちいい、マネージメントは誰かにやってもらいたかった。

僕は常に「やれない・できない」のが嫌いなんです。たとえば浮気は「しない」。女の子にもてた時期もあったから、 やればできるけど「しない」。こんなこと他人から見たらどうでもいいことですよ。でも「できないのではなく、やらない」ことにしないと自分の心の安定につながらないんです。
音楽で食うことが「できる」ことはもうわかった。だからもう音楽はいい、次の「人前に立つ仕事」を探そうって。

で、半年ぐらい構想を練って、 編曲をお願いしてた人達や、僕を東京に送り出そうとしてくれたブレーンと一緒に、「コミックソングのラップ」のデモテープ作ったんです。なんかいまの新作落語作りにつながっているのかもしれませんが「世界規模のにらめっこ選手権」みたいなネタをラップに仕立てて、東京の大手芸能事務所6社に送ったんです。1社からは「うちは規模がまだ小さいからちょっと取れません」とわざわざ電話がありました。そのあと今度は浅井企画さんから「会いたい」って連絡貰って、上京したんです。

当時どぶろっくを担当されていたマネージャーさんとお話ししたんですけど、
結果は「保留」。
「うちの会社にはとにかく大量の売り込みがある。そのなかから二日に一人だけ選んで、こうして面接している。君は自分が何万分の一の存在だと思ってもらっていい。けど昨日会った女性は18歳でめちゃくちゃ美人スタイルもいい、そのままでも売れそうだけど、その子がいきなり水着になって手品を始めた。君はその娘に負けてる。もうそういうのがうじゃうじゃいる。芸能界ってそういう業界なんだ」
「君はたぶん器用で、入ればなんかできるとは思う。でも、うちで売り出すには"入り口"が足らない。なにかうまく行く手ができたら一緒にやろう」ということで保留になってしまいました。


●初めての寄席で落語家を目指すことを決心
面接はうまくいかなかったけど、せっかく東京に来たのでいろいろ見てみようと思って、あちこち出かけました。タイタンのお笑いライブを観に行ったりね。
そんなときにふと池袋演芸場に行ってみたんです。いま思うと3月下席の新作落語台本の会でした。

当時は落語については、全く何も知らない、ひどいもんだったんです。
古典と新作の区別もつかないし、古今亭志ん朝師匠はまだ生きてると思ってたし、ちょっと後の話ですけど国立演芸場のトリで柳家小さん師匠出てるの見つけて「小さん!見ないとあかんやろ」と国立まで行って「……痩せたな」と思った(笑)。
それぐらい知らなかった。

で、何にも知らないまま寄席に行き、初めて生落語を聴きました。
インパクトがあったのは、林家彦いち師匠と林家きく麿師匠でした。 今思えば、です。あのころはお名前も全然わからなかったから。何も知らない頃の話ですから本当に生意気で、ご本人にはとても言えないですけど、彦いち師匠を見た時は「たぶんこの人は、この業界で売れてんのやろな」と思いました。何しろ自信がある喋り方だった。これだけ自信もって喋ってるということは、このひとは稼いでるぞって。

で、思ったんです。落語ってすごいぞ。これやりたいって。
ひとりでやってるし、着物着てる、なんかかっこええし。なんか完成された美しさを感じたんです。

僕、キックボクシングやってたからわかるんですけど、キックボクシングはボクシングには人気で勝てないんですよ。ボクシングは日本人が観るスポーツとして完成してるんです。結局のところサッカーが野球に勝てないのと同じ。「内野ゴロでも足が速い人だったらギリギリセーフ」になる一塁までの距離とか、「フォークがちょうどいいところに落ちる」マウンドからホームプレートまでの距離とか、完成していると思うんです。

で、落語にも同じことを感じたんです。
着物を着てる理由は分からない。分からないけど、これは着物着るしかない。
右向いて、左向いて喋る。その意味は良く分かんないけど、なんかちゃんと伝わってくる。
「完成しているジャンルだけが持つ魅力」みたいなものが感じられたんです。

もう一つ感じたのは、しっかりと東京に根付いている、落語の強さです。
田舎者から見える東京は「地方から人が集まる日本の首都」。でも来てみて思ったのは、東京って祭りが多い。
よく考えたら田舎から上って行く先は東京だけど、東京で生まれた人がそういう意味で行く先はもうニューヨークくらいしかない。地元の人が残ってる「ひとつの都市」としてごっついのが東京。
その東京の真ん中で、平日の昼間なのに50人以上の客がめっちゃ耳を澄まして落語を聴いている。観光客も少しはいるかもしれないけど、メインは地元の人だ。

そうか落語って「首都としての東京」だけじゃなくて「一都市としての東京」に根付いてるんだ。

この東京にしっかりと根付いてるものをやるのは、カネになる。
だって、寄席に出てくる人、出てくる人、みんな太ってる。つまり絶対食えてる。
自分が暗中模索で7年間もさんざんあがいていた音楽業界は、ジャンルとして生業(なりわい)が成立するようになっていなかった。
落語は東京で「なりわってる!」って思ったんです。

様式が完成している「美しさ」と、東京に根付いて興行が成立する「強さ」。
これは「やりたい」し「やってもいい」はずだと思いました。

落語の世界に入れば、余計なことに手を取られることなく、とにかく演じ手として、ただがむしゃらに1位を目指すだけでいいと思ったんです。
もともと僕は、オンリーワンよりナンバーワンになりたい、アスリート体質なんです。
初めて見た落語のおかげで、音楽業界にいた時代に抱えていたモヤモヤが一瞬でバーンと解けた気がして。


「落語家になろう」と思ったんです。

(つづく)

 (取材2017/06/10 取材・文 四家正紀 写真 常山剛)

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