シェアする落語 第18回 三遊亭わん丈』を開催するにあたり、事前にわん丈さんにインタビューを実施しました。一部はご予約特典としてメール配信させていただいています。

せっかくですので、こちらでインタビューの全文を公開いたします。
取材は四家正紀が担当し、文責も四家にあります。
(前回)

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●喬太郎師の追っかけから円丈師との衝撃的な出会い
「落語家になる!」と決心してから、9か月間師匠探しをしました。

自分の中で決めてたんです「絶対に一番笑わせてくれた人のところに行こう」と。
落語は笑わせるのと泣かせるのがある。人間、泣く理由は一緒なんですけど、笑うツボはそれぞれ違う。だから笑わせてくれた人のほうが凄い。

あとコネ目当てにして売れてる人を当たったりしない。たぶん僕、二十歳でこの世界に入っていたら絶対に有名人の師匠のところに弟子入りしていますよね。コネでいろいろ仕事貰えそうですから。
でもバンドの時にわかったんです。コネは1の人間を100にはするけど、0を1にはできない。落語の世界で自分はゼロです。1にしてくれる人を探さなければいけない。
だから何も考えずに一番面白い人、僕を一番笑わせてくれた人のところに行こう、と思っていました。

まず新宿の蕎麦屋さんで早朝のアルバイトを始めました。滋賀生まれで大学からは九州という「うどん文化」で育ってきたので、江戸落語やるなら蕎麦食えるようにならなあかんと思って。時そばくらいは知ってたんで。
働いた後のお昼と夜は寄席とホール落語。少なくとも週3 回、多い時は週6 回くらい通ってました。

いろんな師匠を聴かせていただきました。
でも、9 か月のうち3 か月間くらいは師匠探し忘れてある方の追っかけやってました。柳家喬太郎師匠です。もう、ただただファンで。当時、日記みたいなものを書いてたんですけど、めっちゃ喬太郎師匠のことばっかり書いてあるんです。でも、追っかけてましたけど、なぜか弟子入りしようとは一回も思わなかったんです。

で、なにかで喬太郎師匠のインタビュー読んでたら、うちの師匠(三遊亭円丈師)のことを凄い言ってくださっていたんです。
それがきっかけで、一回観に行こうと思って。

当時僕は師匠のことをよく知りませんでした。新作落語で凄いというのは知ってましたけどそもそも、新作と古典の区別がまだそんなについてなかったです。
 
喬太郎師匠って新作でも古典みたいに「うまく・美しく」やられるじゃないですか。
で、白鳥師匠の新作はほんとに新作らしい「斬新」な感じですよね。ほんとはとても品がある方だから、あんな斬新な着物着て、斬新すぎてときに品のないこと言っても受ける。というふうに、同じ円丈チルドレンの新作でも幅がありすぎる。
と考えると、古典と新作どこが違うのか、良く分からなかったんですね。

調べたら、末廣亭の仲入り前に出てはるということで聴きに行きました。
もう、出てきた瞬間ですよ! ピッてきて。喋り始めた瞬間にまたビビってきて。ネタに入る前の与太郎小噺で『もう、この人だ! 』って思ってるんですよ。ネタはね、金明竹やらはったんですよ。後半は師匠のオリジナルのものなんですけど。

とにかく一番面白かった。一番笑わせてくれた。 それに品がある。いまでもそうなんですけど、僕、うちの師匠で好きなところって上品なところなんですよ。声の出し方もそうだし、つばが飛ばないんですよ、ほんとに。最前列で見てても飛ばない。
ほんとは穏やかな人柄で、ずっと土と水を触っていたいんですって。
着物もいい着物着ていますしねえ。円丈とくるとふつうは新作なんですけど、僕はむしろ品の良さに魅かれたんです。初めて見たのは古典ですから。

それと、自分の親父にそっくりなんです。優しさ・厳しさの種類とか。あと、地雷で怒るんですけど、その地雷の場所、地雷の回収の仕方までそっくり。よく兄弟子に「お前は師匠にはまっている」と言われるんですが、それは師匠とうちの親父がそっくりで、二人ともとても厳しい人だからです。

「この人しかいない」って決めました。

 
●弟子入りと、入門を賭けた競い合い
弟子入りに行った日のことはよく覚えています。2011年1 月23日、お江戸日本橋亭・座布団カップです。新作の会ですね。

日本橋亭って楽屋口が分かりやすいですよね。だから、ここだなと思ってました。師匠は定期的に会をやってましたし、弟子入り志願もこそこそ行かずに、出演者が多い時に、みんな見ている前で「円丈師匠! 」って行ってやろうと思ってたんです。

うちの師匠と仲のいい作家の先生が楽屋の前にいらして「すみません円丈師匠に入門したいんですが」ってお願いしたら、その先生が気さくな方で「わかったわかった、呼んできてやる」って。そしたらいまの三遊亭めぐろ兄さん、当時の玉々丈兄さんが出て来て「あそー。じゃあ師匠呼んでくるねー」って。
それから師匠が「はいはいはいはい」っていらっしゃって。

「弟子にしてください」って言ったんですね。
そしたらうちの師匠が「なんか新作の台本持ってきた? 」。
「えっ。履歴書は持ってきましたが……」
「あ、いいんだいいんだ。別にいいんだ。じゃあここに連絡して」とすぐに名刺をくれました。

次の日は1 月24日月曜日。朝何時に電話するのが正解だろうって、すっげ―悩んで。10時過ぎに電話したのかなあ。師匠すぐ出てくれて「じゃあ、うちにくるか」ってなって、1 月26日の水曜日にお伺いしたんです。

師匠と一時間くらいお話しさせていただきました。喬太郎師匠の『金明竹』まくら含めて28分を完コピして、師匠の前でやりました。完コピとはいえ「柳家喬太郎と申しまして」とは言ってないと思いますが「気軽にキョンキョンと呼んで下さいね」とか言っちゃったかも。落語知らなかったですから、登場人物三人出てきたら、上下の切り方もめちゃくちゃで、上手( かみて) にいるはずの三人目の登場人物が下手( しもて) になっちゃったり。師匠は「あー、わかったわかった」って感じでしたかね。全部聴いてくれましたよ。

ひどい『金明竹』だったと思いますけど、僕の覚悟が見えたのか、なんなのか、止めろとか、厳しいことは何も言われてないです。他の弟子の弟子入りの時もそうだったのかもしれないんですけどね。なぜかその時の弟子のいい部分・悪い部分を凄い話してくれたんですよね。上から順番にね。

それから「歳もよさそうだからね。弟子入り決まったところで親を連れてきたりしなくていいよねっ。25歳超えてるからねっ。全部自分の責任だよねっ」って。
そのときに、もうひとりの弟子入り志願の話をしてくれて。

「夏ぐらいにねー、弟子入りしたいってちょいちょい来てるやつがいるんだけど、タイミングが悪くて断ったんだけど……。電話番号貰ってたよなあ。あ、これだこれだ。いま電話してみよう」
「もしもし、ちょくちょく来てくれていたよね。君も来る?」って。
これが、一つの上の兄弟子になる同期の三遊亭ふう丈兄さんです。次の水曜日から週一回ふう丈兄さんと二人で、師匠のお宅に通うことになったんです。

  ふう丈兄さんのことは僕、知ってたんです。兄さんも僕のこと知ってたんです。お客さんのなかで「弟子入り臭」がしている奴ってわかるんですよ( 笑) 。で、ふう丈兄さんってほんと面白くて、当時、ピンク色のめっちゃ派手なパーカー来てて、頭はアフロで、頬杖付きながら見てんですよ。「この人なんなんだろう、客なのかなあ」って思ってて。ハハハって笑わないんですよ「…ふっ」て笑ってんですよ。いまの兄さんから想像できないです。あのひと絶対自分のキャラを隠してます。もっととっぽい人だと思いますよ。

「なんだこいつ」って思ってたんですけど。向こうも向こうでたぶん僕のことは前から気が付いていて、兄さんまた新作落語の台本持って改めて師匠にアタックしようとしていたら、僕の弟子入りに出くわして、電信柱の陰で見ていたらしい。「なんかあいつ、話進んでる? 」って。

  初めてお伺いすることになった翌週の水曜日。師匠の家の前で逆の方向から歩いてきたふう丈兄さんを見て「あー、ピンクだぁぁ! 」( 笑) むこうも「あいつだぁ! 」ってなってるんですよ。
とりあえず「どうも」って挨拶して。この時点ではお互いの存在には気が付いていたけど、名前は知りません。で、二人で師匠宅に入って。

 そのとき師匠に言われたのが
「二人ともはとらない。

 とるとしてもひとりだけとる。
 どちらもとらないうこともある。

 二人ともとる、はない」。

それから
「(自分の師匠である)三遊亭圓生が弟子に必ず最初に教えていた『八九升』という古典落語を教えてあげるから。頑張って覚えなさい」って。

「落語家は弟子に噺を教えず、生き様だけ教える」「だから師匠といっても師匠が弟子に稽古は直接つけない」なんて話をよく聴きますが、うちの師匠はわりと先生なんですね。着物の畳み方を教わってない入門前の僕ら二人に、落語の稽古つけてくれました。
  で、ふう丈兄さんとふたりで『八九升』頑張って覚えて、毎週お宅に通って、師匠に見てもらって、教えてもらって。

さらにお題をいただいて、新作落語を作って来いと。
『時計』で4席落語作って来いとかね。
ふう丈兄さんはもともと芸人養成所で修行していたこともあって、最初から作れたんです。僕も作るには作るんですけど、最初に作ったのは落語にもなってない、コントみたいな感じのダメな新作落語で。『情報ラッシュアワー』という演目だったんですけど、場所が電車のなかってだけで、時間の流れが落語になっていない、ゴールに向かっていない。一つ一つのギャグがテレビ的で、なるほどとは思うけど
理屈っぽい。何しろ落語を『八九升』しか習ってない段階ですし。

師匠は、ふう丈兄さんには「君は作れるね」僕には「君は作れないね」って。

で、こんなの感覚でやってても上手くいかないから、兄さんの作品を全部メモって、家に帰って分解してみたんです。そしたら毎回四つの型で作られていることが分かったんです。それで今度は自分もその型に合わせて噺を組み立ててみたら、師匠から「作れるようになってきたね」って言われました。

そして、二か月半経った四月一日でしたね。師匠がこう言ったんです。

 「ふたりとも頑張っているので、両方、弟子にとります」

 で、僕に向かって
「この世界は全くの同期はありえない。君のほうが年上だし、うちに来たのも君のほうが先だけど、先に入門志願に来たっていうことで、彼が九番弟子、君が十番弟子。いいかな?」 

「はいっ」

  こういういきさつなんで、ふう丈兄さんとはいまだにお互い敬語使って会話してます(笑) 。
兄さん優しいから。兄さんが上で良かったですよ。ほんと良かったと思っています。

後で他の方から聴いたんですよ。実は結構早い段階で二人ともとる気だったらしいです。ふう丈兄さんと僕がライバル同士わちゃわちゃしているの見ているのが楽しかったそうです。超サディスティック( 笑) 
いまでも師匠のところに弟子入り志願がちょいちょい来て、全部断ってるんですけど、二人同時に来たら考えるって。僕ら二人を競わせて育てるのが楽しかったんだと思います。その、なんか、師匠を取り合うようなところも見せたりね。こんな経緯があったから、兄さんとの絆は強いし、でも実のところへんな感情もどっかに絶対ありますね。
  
とはいえ、二人とも大人で、腹くくってましたね。人生賭けての競い合いでしたけど、ずるいことはお互い一切しなかった。ほんとに正々堂々やってました。ふたりとも一生懸命稽古してきてたし。

師匠も言ってくれますね「あのときは、お前らあんなに上達するのが早いとは思わなかった」って。それはやはりライバルの存在だったと思います。

 名前付く前に連絡先を交換しているから、スマホの電話帳には、いまだにふう丈兄さんだけ本名で入ってます。
  
●十番弟子『三遊亭わん丈』誕生秘話
こうやって二人同時に「見習い」となって、毎日お宅に通わせてもらえるようになったんです。四月十日に、先に兄さんの名前が決まりました「君はふっくらしているから、ふう丈なんだよ」。

僕のほうは難産でして、
「君はラジオやってたからD 丈にしようと思ったんだけど、アルファベットで落語協会通るかなあ」
昔昔亭A太郎兄さんの存在を知ってたらD丈になっていたかもしれません。
「カタカナで" ディ丈" にしたら、落語会っておじいちゃん多いから" でぃーじょう" "でいじょう" とか、いろんなふうに呼ばれちゃうなあ」とかとか、そこから二日考えてくれたんです。

ずーっと悩んでいた師匠の前を、当時、師匠が飼っていた”ろっきい”と”ミッキー”が横切ったんです。そしたら、しびれ切らしたおかみさんが、

 「なにそんなに悩んでるの。いま犬が通ったから『わん丈』っていいんじゃないの」って。

内心「『わん丈』来たーっ!」って思いました。だって三遊亭円丈の弟子になって『わん丈』って、いいですよ。まず一文字違いですし、犬と狛犬が大好きな師匠ですし。

やったーと思ったけど、自分からは何も言えないです。

師匠は「嫌だよなぁ?そんな犬みたいな名前なあ?いまちゃんと考えてやる」って、それからまた一時間が経過して、おかみさん「わん丈悪くないんじゃない?」。
師匠「だからお前は黙ってろって」そして僕に向かって
「嫌だよな?そんな名前なぁ?」って聞いてくださいました。

そのときはじめて「すみません、いいなあって思ってました」。
師匠は驚いて「ほんとかい?ほんとにいいと思うの?」
すかさず「はい。ほんとにいいと思ってました」
そしたら師匠は納得して「じゃあ、ナンバーワンの"わん"でもあるしな」って。
おかみさんは「そうだねぇ」って。
それはおかみさん考えてなかったと思うんですけど(笑)
 
円丈の弟子で『わん丈』。ほんとにいい名前頂いたと思います。
僕、一生"わん丈"でいいです。
目立つのもいいですよね。東京かわら版の名鑑でも五十音順だから「わん丈」って一番最後に掲載されるんですよ。

(つづく)

 (取材2017/06/10 取材・文 四家正紀 写真 常山剛)
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