『シェアする落語 第18回 三遊亭わん丈』を開催するにあたり、事前にわん丈さんにインタビューを実施しました。一部はご予約特典としてメール配信させていただいています。(前回)
せっかくですので、こちらでインタビューの全文を公開いたします。
取材は四家正紀が担当し、文責も四家にあります。
●見習いのまま初高座、そして楽屋入りまでの長い道のり
「通いで見習い」としての師匠宅での修業は、そんなにきついとは感じませんでした。
うちの師匠は、本当は何でも自分でやれちゃうし、兄弟子曰く「あまり物理的にはかまってほしくない」人なんです。また、おかみさんもいわゆる「噺家のおかみさん」というタイプではないんです。弟子がなんかしようとすると「ああ、やらなくていいよ、いいよ」みたいな。
わざわざ弟子のために掃除するための場所を空けてくれていて、僕らは「掃除をやらせてもらっていた」感じです。だから僕らが二ツ目になって、お宅に通う前座がいなくなっても、お二人とも意外と困ってなさそうですもんね。
初高座は早かったんです。
まだ入門三ヶ月くらいの2011年7月10日でした。この頃には古典を四席・自分の新作も二席持ってたんですよ。そしたらうちの師匠に「お前ら見習い長いだろ。出なさい」って。お江戸日本橋亭で一門会をやってくれたんです。全員で古典をやる一門会。
僕が掛けたのは『八九升』。ふう丈兄さんは『やかん』、うちの師匠は『百年目』、白鳥師匠は『唐茄子屋政談』、丈二師匠『唖の釣り』、究斗師匠『反対俥』……覚えてますねぇ。これがデビューです。もう、何にも面白くない、ただただちゃんとした高座で、エピソードとしてはクソつまらない(笑)「初高座とは思えない」という感想がみんなから返ってくるような。
でもここからら楽屋入りまでが大変でした。
結局一年かかったんです。それまでの人はせいぜい半年くらいだったのに。僕らから一年間は見習いってことになったんです。
一年間で2回バイト変えました。
「楽屋入りまでの半年間バイトしろ」って師匠に言われたので、半年の約束で働いていたら、まだ許しが出ない。続けて働けませんかと聞いたら後任もう雇っちゃったって。仕方なく次のバイト探して、今度は「二、三か月くらい働かせてください」ってお願いして、この仕事も5か月くらいで終了しちゃって、まだ声かからない。しかたないから、また違うバイトをしようと面接に行った直後に師匠から「楽屋入り決まった」って電話を頂きました。
2週間前ですよ、楽屋に入れって言われたの。ふつうは二、三ヵ月前には決まるもんなんです。
これは人によるんですが、うちの師匠は見習いを寄席に連れて行かない人だったので、何をするにも情報がないし、いろんなもの買いに行かないといけないし、もうとにかくバタバタでした。
慌てて滋賀県の実家に帰って「寄席の楽屋に入るので、これからしばらく帰れません」と挨拶しに行ったり。大変でした。
●いよいよ前座として楽屋入り
最初の楽屋は、2012年鈴本四月上席・桂文楽芝居です。春風亭一之輔師匠の昇進披露の直後です。やっぱり初めの芝居に出ていた方々のことは覚えていますね。
最初の楽屋仕事ですか……。もともと家事とか全然できないので、完全に「仕事モード」に気持ちを切り替えて取り組んでいました。今日もちょいちょい関西弁が出ていると思うんですけど、楽屋の前座って「はい」「ありがとうございます」「申し訳ございません」しか言わないんです。こういう標準語使っている自分は、どこか「本当の自分」じゃないので、私情を一切挟んでいない「仕事用の自分」として取り組んでました。サービス業「修行という仕事」を覚えて、黙々とこなすだけ。こんなんで了見なんか絶対変わらないと思ってました。だいたい落語家なんて嘘つく商売やから「どんだけうまく嘘つけるか」やなと思ってました。でもその嘘つきを一生懸命やってたんで、発しているエネルギーは決して悪いもんではなかったと思います。
「お前は言われたこと以外するな」というのが当時の師匠の教えです。僕の場合、ちょっとズルいことやると、ものすごくズルく見える。僕もそれは分かってるんで。ちゃんとやってました。
とにかくメモをしまくりました。
本当に人の名前が覚えられないんで、けっこう売れている師匠でも名前が出てこないことがあって、師匠一人一人に番号つけて覚えているみたいな。でもその師匠方が靴下をどう履くかまで全部メモってたんで、僕の情報は正確でした。常にメモ紙持って、チェックしながらこなしていました。要はやるべきことを、ちゃんとやっていただけです。そして、それ以上のことはしない。
もうひとつ「売り込むな」これも弟子入り直後に、師匠に頂いた言葉です。
なんか目がギラギラしていたらしいんです。それを見た師匠が「古典落語の中に君みたいな顔をした人は出てきません。もっとゆっくり生きなさい。ぼんやりしなさい」。いまでも同じことを言われています。弟子の中でも僕だけに言ってるらしいです。
僕は何やっても鼻につくんですよ、動けすぎて。
「もっとぼんやりしなさい」「もっとぼんやりしなさい」これ難しかったですよ。本当に難しかった。
どうしていいかわからなくて、わざと汚ったない服着て、師匠に「うん」って言ってみたんです。それは怒られましたね(笑)。「なにやってんだお前!」「いや、ちょっとぼんやりしてみました」「それはぼんやりじゃねぇ!」。僕オンとオフしかないんです(笑)
師匠が「そんなにやりにくいなら、頑張ってもいいよ」って言ってくれたこともありますよ(笑)
いまだに僕が自主企画をやらないのも、師匠のこうした教えの影響です。「営業したいなー」「自分の会やりたいなー」と思うこともあるんですけど、しない。頂いた仕事をしっかり一生懸命にやる。
師匠はこんなことも言ってます「いまは自分で動く落語家が多いけど、本当は違う。落語家というのは、お稽古をして、仕事貰って、ある程度の額をしっかり貰って、着物を着て、高座に上がってお客さん感動させて、着物着替えて帰る。で、高座がよければ、それを見てくれるお席亭とか、主催者がいて、その人が、あなたが食っていけるようにしてくれます。それがこの世界なんです。落語家は見つけてもらう仕事なんです」。
こういう師匠の言葉を守ってきたからこそ、いまがあると思ってます。それは「音楽やってたころは、自分の仕事を一からはじめて、売り込みでもなんでもかんでもやらないといけなかった。落語家になったのだから、今度こそ演じることに絞って勝負したい」という、僕自身の意識とも合致しています。
寄席での初高座も、この鈴本の芝居です。2012年4月2日、演目は『やかん』でした。
見習いの頃からすごい可愛がってくれていた柳家いっぽん(現・かゑる)兄さんがちょうど立前座でした。兄さん優しくて。
「お前親を呼びたいだろ。初高座上がりたい日、言え」
「二日目でも、いいですか。土日ですけど」
「二日目なら大丈夫だ」って。
おかげで親と友達に初高座を見てもらえました。
はじめての寄席は緊張しました。というか、鈴本はいまだに緊張します。池袋もです。なんかふわふわしちゃう。新宿と浅草はなんか大丈夫なんですけどね。もともとそんなに緊張しないたちなんですよ。何人かの人に同じこと言われたんですけど「落語やっているお前を見ているお前がいるだろ」って。本当にそうなんです。だから演じながら新しいギャグ思いついて入れてみたり。
家でぼーっとしている時間より、お客さんに見てもらっている高座の時間のほうが自分として自然なんですよ。一人でぼーっとしていると「なんでこの状態の俺を誰も見てくれてないんだろう」って思ってしまう。それくらい目立ちたがり。究極のパフォーマーかもしれませんね。だからふだんの高座ではそんなに緊張しないんです。だけどあの鈴本はさすがに緊張しましたよ。
(つづく)
(取材2017/06/10 取材・文 四家正紀 写真 常山剛)
【広告】