『シェアする落語 第19回 雷門音助』を開催するにあたり、音助さんにインタビューさせていただきました。一部はご予約特典としてメール配信させていただいています。

インタビューは2017年9月30日と11月12日に行いました。
文責は全て四家正紀(シェアする落語主宰)にあります。

雷門音助
昭和62年11月30日生まれ
2011年 10月 雷門助六に入門
2016年 2月より二ツ目昇進
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(撮影:常山剛)
(前回(1)はこちら)


●信用金庫のニューフェイス

就職は、地元の静岡に戻ることしか考えてませんでした。

大学のあった京都は、とにかく寒かった。身体の芯を冷やすような寒さで、四月になってもまだ寒い。僕、寒いの駄目なんです。

といって東京も大阪も特に興味を持てなくて。

 実家に近い信用金庫から内定をもらいました。本当は特に金融志望というわけではなかったんです。最初は鉄道・物流・流通などなど、地元の大手企業を一通り受けようとしたんですけど、ほとんどが書類で落とされました。僕は2010年卒業なんですけど、リーマンショックの影響がまだ残っていて、企業が新卒採用を絞っていたんですね。就職が決まらずに留年する同級生もけっこういました。

でも金融機関はあんまり求人数を減らしていなかった。それで受けてみようかなと。でも銀行は受けませんでしたね。なんか大きくて、なんか大変そうだから(、信用金庫と労金を受けました。そしたらどんどん面接が進んで、第一志望だった地元の信用金庫が最初に内定出してくれて、他の学生のためにも他社は断りなさいと言われたので、決めました。

 

大学卒業して実家に戻り、信用金庫に「入庫」して働き始めました。

信金って営業エリアが決まっていて、ほとんどの新入社員が実家から通勤してましたね。同期入社の人たちはみんないい人だったんですけど、みんな大学生らしい大学生活をちゃんと送ってきたんだろうなあと、そんな風に見えました。自分は落語研究会にいて、周りが変な人ばっかりのところで過ごしていたので ()

 

新人研修の最初、ひとりひとり挨拶するときに、本名が「秋山」なので五十音順で最初だったんです。なんか嫌だったんですけど、でも一応落語やってたので喋れちゃうじゃないですか。そしたら次に立つ人が困ってました(。「そんなにやんないでよー」みたいな。別にたいしたこと言ってないし、面白いこと思いつくタイプじゃないので、……ってそれは噺家として致命的ですけど(、そんなにたいしたこと言ってないと思うんですけどねえ。

 

集合研修のあとは支店配属です。そこそこ大きな支店で、新人は僕一人ですけど、6年くらい上まで各世代の人がいました。こういう支店は意外と珍しくて、歳が近いのでみんな仲が良くて週3回くらい飲んでました。でも皆さん仕事ではバリバリやってました。

 

内勤の期間を経て外回りに出るようになります。先輩社員にくっついて行っていろいろ教わりましたね。カブ(スクーターに乗って、地元の商店街とかお宅を一軒一軒回って、ガラッと開けて「こんにちわー」って訪問して、対応の仕方とか、端末の使い方とか、商品知識とか、全部真似しました。

 

この先輩はイケイケ系の人で、まあ()宮治兄さんとは言わないですけど(、グイグイ迫ってお客さんの心をつかんでいくんです。最初はそれも真似しようとしたんですけど、ちょっとキャパシティーの問題で無理でした()

 

グイグイは無理だったので、聞き手に回っちゃう営業をやってました。

その日に訪問するリストを用意して、16時までに店に戻るスケジュール組んでカブで回るんですけど、途中で一時間くらいおばあちゃんの話を聴いちゃったり。予定が狂って、他のお客さんに行けなくなって電話しておわびしたりして。日で回り切らないといけないのに。

 

デスクワークも、まあ遅いんです。融資の必要書類を揃えて、あれ書いてこれ書いて、何とかリスト揃えて、会議出て……本当に要領悪くて、そんなにたいした仕事してないのに残業ばっかりしてましたね。残業代はちゃんと出るので、すぐ上の先輩より給料多かったです。要領よく仕事する人のほうがもらうものが少ない。なんかすみませんって。

 

寄席の楽屋も一緒ですけど、一年目がとにかく大変なんです。全部一から覚えなきゃいけないし。一通り回せるようになるまでは本当に大変でしたねえ。


●落語断ち、失敗
先ほどもお話しした通り、社会人になってからは、あえて落語を聴かないようにしていました。
「俺は社会の歯車になるぞ」って「落語断ち」。断ち物です(笑) 。テレビで落語やってたら、チャンネル変えるくらい遠ざけてました。

でも平日は働いて、土日の休みにやることがない。
さらに今度は社会人サッカーチームに入れられちゃって。これがまた嫌で(笑) 。静岡って社会人リーグがいっぱいあるんですよ。
土曜日は嫌なサッカーでへとへと。そして日曜日はやることがない。そんな日々でした。ある日、ふと思い立って、一人で『シネマ歌舞伎』を観に行ったんですよ。藤枝の実家からわざわざ清水のシネコンまで小一時間、クルマを飛ばしました。
なんか「客席」と「舞台」のあるところを、心が欲していたんですね。


そのうち、仕事でへとへとになって家に帰ってきて、つい聴いちゃったんですよ、落語。先の(三遊亭) 円遊師匠の音源です。せっかく落語断ちしていたのにやっちゃった(笑)。
これがねえ。心地よすぎて。もう、ほんとに心地よすぎました。気が付いたら、静岡から新幹線乗って東京の寄席に向かってました。

僕は情報を集めるのが下手なほうで、世の中にこんなに落語会があるって知らなかったんです。上野広小路亭の存在も知らなかったくらいです。
落語は寄席で聴くもんだと思い込んでて、新宿末廣亭・浅草演芸ホール・池袋演芸場・国立演芸場に足を運びました。落語協会と落語芸術協会で半々くらいでしたね。何しろ新幹線乗るわけですから、そんなに頻繁に通ったわけではないですが、暇ができると上京して寄席に通ってました。

好きだったのは、入船亭扇橋師匠、古今亭圓菊師匠。
あと春風亭小柳枝師匠が大好きで。出てくるだけでもうすごい。あの顔とあの体格が放っているものがもうすごい。あの表情とふわっとした雰囲気がたまりませんでした。
あとボンボン先生!(ボンボンブラザース) 好きでしたねえ。

というわけで、落語断ちには見事に失敗してしまい、しばらくは仕事しながら趣味として寄席通いを楽しんでいたんですけど、ふと気が付くと、もう信金を辞めたくなってしまいまして。


●クレジットカード勧誘の苦痛、そして腹をくくる
営業の仕事は、そんなに苦じゃなかったんです。
おじいちゃん・おばあちゃんのお客さんが多くて、お話をするのは楽しかった。話を聴くだけで「やっぱり、ゆうちょのほうが楽だから」って、肝心の年金受け取りの口座は取れなかったり、相変わらず要領悪くて成果は上がらないんですけどね。でも、そんなの全然苦じゃなかった。

事業融資のお客さんはもう少し大変で、中でも苦手だったのは「イケイケな動物病院の院長さん」。こっちの知識は追い付かないから聞かれても答えられないことが多いし、忙しいからなかなか会えないし、そのうち「マンション経営やりたい」とか言い出したりして、もう大変で。
書類の不備で怒鳴られたりして。
でもそんなのは、辞めるとか、そんな話ではなくて。

ただ、クレジットカードの勧誘がどうしても嫌だったんです。

預金や融資の目標とかはいいんです。お客さんのほうにも、ためになりますから。
でも「半年で7枚のクレジットカード契約を取って来い」という目標があって。
もうクレジットカードなんてみんな持ってるのに、使いもしないカードを「携帯電話の引き落とししてくれれば年会費かからないし、一年のうちに解約すれば年会費もかかりませんから」とか無理なこと言って。一方でちゃんと申し込んでくれるお客さんがいたりするんです。使わないのに。

僕もお客さんもなんか嫌な思いしなきゃいけない。確かに店の成績にはなるけど、誰のためにもなってない。そこを押し込むのが営業なんだとしたら、僕は営業としての覚悟が足らなかったんでしょうね。他の仕事は嫌いじゃないのに、カード勧誘のせいで、なんかどーんときちゃって。

このまま勤めて、8年くらいで営業主任になって、資格取って課長になって、いろんな店舗回って、順調に行けば課長から次長、副支店長から、なれたら支店長に……。

将来、何歳のときにはたぶんこんな風になるってのが、なんとなく見えるんです。周りに各世代の方がいますから。10年後にはこの人みたいに、15年後にはこの人みたいになるんだろうなって当てはめることができた。先が見えてしまったんです。

他の支店に行った同期のなかには、厳しい支店長の下でもっと大変な目に遭ってる人もいたけど、みんなちゃんと頑張ってました。
ファッション好きな同期は、仕事は大変だけどちゃんと給料もらて好きな服を買えるんだからこれでいいって。確かに給料もボーナスもちゃんともらってて安定していましたけど、でも僕はそんな風に割り切って考えることが、できなくなっていました。

いや、いい職場だったんです。着実に階段を上りながらしっかり成果を出している、そんな素晴らしい人はいっぱいいました。
本当に、今でも尊敬しています。それはもうもう本当なんです。
でも自分はもうできないなあって思ってしまった。

じゃあ信金辞めて何をやるのかと考えたときに、自分には落語しかなかったんです。他にやりたいことがなかった。
大学の落研にいたころはプロになる気は全くなかったのに、社会人になって「落語断ち」に失敗して、寄席に足を運んでいるうちに、どうしてもやりたくなってしまった。
大学落研のなかで身近にいたはずの先輩が、桂優々兄さんとして先にプロになっていたというのも、やはり大きかったかもしれません。

「落語やりたければ、アマチュアでどう? 」と言われたこともありましたけど、全く興味ありませんでした。やるならプロしかない。

新人サラリーマンとしての挫折と、断ち切ったはずの落語への思いが重なって、僕は腹をくくりました。

落語家になろうと決めたんです。

(続く)


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