『シェアする落語 第19回 雷門音助』を開催するにあたり、音助さんにインタビューさせていただきました。一部はご予約特典としてメール配信させていただいています。
インタビューは2017年9月30日と11月12日に行いました。
文責は全て四家正紀(シェアする落語主宰)にあります。
昭和62年11月30日生まれ2011年 10月 雷門助六に入門2016年 2月より二ツ目昇進
(写真 四家正紀)
●ほんとはサッカー嫌いのサッカー部員、応援団と掛け持ちに
出身は静岡県の藤枝市です。姉が一人います。
静岡ですから、ご多分に漏れずサッカーが盛んな地域で、僕も幼稚園児のころから高校までやってました。たまたま父親がスポーツ少年団のサッカー指導者で、その後、監督から団体の代表までなった人で。
でも僕、本当はサッカー好きじゃなかったんです。イヤイヤやってました。
運動が嫌いで。本当に走るのが嫌いで、とにかく肺と心臓を使うのが大嫌いで(笑) 。シュートとか、サイドチェンジのパス交換とか、フリーキック・コーナーキックの練習とかは大好きなんですけど、走り込みがもう嫌いで嫌いで。練習してもなかなかうまくならないし。
それでも、高校でサッカー部に入ったんですけど、1 年生のときに掛け持ちで応援団にも入ったんです。野球の応援とかやるんですね。1 年生のクラスからは必ず2 人出すことになっていたんですが、サッカー部の監督が「サッカー部から応援団に出ろ。毎年出ているから」って。
これが古色蒼然・ゴリゴリの応援団。
歌唱指導・校歌指導と称して、新入生全員に応援のやり方を教えるんですけど、もう「んじゃ! おらーっ! 」「声小さいんだよ!!」って強圧的な感じで、一般の女子生徒が泣いちゃうくらい指導するんです。
なかば強制的に参加させられた応援団なんですけど「1 年生は夏まで強制参加、そのあとは辞めてもいいし、やりたい人にはそのまま団に残ることもできる」という決まりだったので、夏が過ぎたら辞めてもよかったんです。他のサッカー部出身者はやっぱりサッカーに集中したいから、
みんな辞めました。でも僕は応援団に残ったんです。みんなと違ってそんなにサッカー好きじゃなかったし(笑)、 うまくもなければレギュラーでもなかったし、それと応援団に集まっていた仲間が面白ったんで、そのまま続けて応援団をやってました。
3 年生になるとき、上級生からの指名で団長が決まります。たぶんこいつが団長になるんだなと思われていた同級生がいたんですけど、そいつ本番中にちょっとふさげて上級生の信頼なくしちゃって。
なんと僕が団長に指名されちゃったんです。だから長ラン着て、やたら声を出してましたよ。うん、声を出すことだけは慣れてましたね、フフフ。まあ、レトロでしたね。今はもう、母校にはこんな文化ほとんど残ってないみたいです。
応援団で忙しくて、サッカーの練習はちょこちょこ休んでましたから、試合では使ってもらえず、ビデオ撮影やってたりしました。最後のほう、ちょっとだけ出してもらえましたけど。
子どものころから好きだったのは、テレビのお笑い番組です。中学生のころからは録画して見てましたね。僕が小学生のときにボキャブラ天国が終わって、ネタ番組がほとんどなくなっちゃったので、一番見ていたのは『爆笑オンエアバトル』です。好きだったのはアンタッチャブル・バナナマン・おぎやはぎ、などなど。今考えるとすごいメンバーです。
高校のサッカー部でもう一人お笑い好きな奴がいて、二人ともテレビ見ているうちにネタ覚えちゃって、一緒に漫才やってましたよ。でも文化祭に出たりはしていません。主に部室とかですね。大勢の前ではやってないです。
落語もテレビで見てましたけど、落語流してくれる番組がそんなに多くなかったですよね。爆笑問題が司会していたころの『笑いがいちばん』ぐらい。見ていたといっても、誰が出て、どんなネタを掛けていたのか全く覚えていません。
静岡の高校生って、6 割くらいは東京に進学します。あとは地元とか関西という感じです。当時の僕はなんか、東京が怖くて(笑) 、大阪もなんか違う。京都がちょうどいいなあと。関東に行くなら神奈川の大学を目指したかもしれません。一番にぎわっているところの、ちょっと横が好きなんですね。経営学部・商学部を狙ってたんですけど、一方で仏教にもちょっと興味があって、でも専攻するつもりはなくて。龍谷大学って全学部で仏教関連の必修科目があるんですよ。なんかちょうどいいなって
受験したら合格したんです。経営学部です。
●龍谷大学で古風な?落語研究会に
大学に入ったときには、経営学をちゃんとやりたいと思ってました。他にやりたいことは特に何もなかったです。とにかくサッカーはやらない。いや運動はもうやらないと、それだけで(笑)。
入学式のあとに、発注していたノートパソコンを生協に取りに行って、スーツ姿で学内を歩いていたら、ある先輩が「お笑い興味ありますか」「お笑い興味ありますか」とビラくれたんですね。
「ああ、お笑い好きです」って。そんな感じでなんとなく落語研究会に入りました。あのとき「落語興味ありますか」と言われたら、たぶん入ってなかったですね。
龍谷大学って京都の大学ですから、落語研究会ももちろん上方落語がメインなんですけど、関西圏出身者以外は江戸落語をやってもいいことになってました。一方で、ちょっと古いというのか、変わっているところがあって、最初に落語をやると決めたら4 年間落語。漫才やるなら卒業まで漫才、漫談なら最後まで漫談しかやっちゃいけないんです。他の大学はそんなことなかったんですけどね。
入部したばかりのある日、他の現役生はいないとき、部室にたまたま来ていた落研OBの方に言われたんです。「この部では過去四年間、江戸落語やってる人いないから、今やれば上に誰もいないから一番になれるよ」と。そうかーって(笑)。兵庫出身の方なんですけど江戸落語が好きな方で、後輩に江戸落語やらせたかったんでしょうね。
まあ僕も、どだい関西弁喋れませんし、上方落語をやるなんて1%も考えたことなかったんです。やるなら江戸落語かなと。
そのOBの方に音源をいろいろお借りして、江戸落語を聴き始めました。
カセットテープとかCDとか、ほとんどがすでにお亡くなりなっていた師匠方の高座です。
そのうちだんだん自分でも音源探してきて聴くようになりました。
聴くのが好きだったんですね。とはいえ、落研ですから自分でも落語やらないといけない。けれど上には江戸落語やってる人はいないし、指導してくれる顧問の落語家がいるわけでもない。だから自分で音源聴いて覚えて、先輩に見てもらってました。見てもらわないと人前で掛けてはいけないんです。この辺はなかなか厳しいんですよ。あんまり落語に詳しくない、漫才とか漫談やってる先輩に見てもらって「もっとこうしたほうが聴きやすい」とかアドバイスもらえたのが面白かったですね。ためになりました。
で、大学のなかの施設で落語会を開きまして、高座に上がるんです。まあ覚えて、やって、終わりです(笑) 。落語やることより、みんな集まってワーワーやることがメインみたいな。お祭りみたいなもんでワイワイやってました。
でも落語が受けなくて落胆している人はけっこういましたね。僕はあんまりそんなことなかったんですけど、上方の人にとっては受けるってことは大事なんでしょうね。漫才はそこそこ受けるので「いいなあ、漫才は」なんて、漫才やってる人を嫉妬してましたよ。でもそこで漫才に転向したいと思っても、できない(笑)。
落研の先輩には恵まれました。いまだにかわいがってもらってます。昨日も当時の先輩からメールが来て「真田小僧、演ってください」「あ、どこかで演りますよ」とかとか。
どんなネタ掛けていたか?なぜかあんまり覚えていないんです……。
初めて覚えたのは『寿限無』です。次が『道灌』。なぜか桂文朝師匠の音源で覚えました。もう忘れちゃいましたけどね。あと『金明竹』やってましたね。あのころやっていたから、今はやらない(笑)。そのうちやりたいなって思います。
先輩から「あんまりネタを増そうとするな」って指導されてたんですよ。今考えたらどんどん覚えちゃったらよかったと思うんですけど、これも落研の、昔からの伝統だったんですね。
初めて寄席に行ったのは二回生のときです。ゴールデンウイークでした。今はアナウンサーになってる、一つ上の先輩と深夜バスで京都から東京に出て、新宿末廣亭へ行って昼から夜の終演まで聴いてました。昼の部は歌丸師匠がトリで、夜は真打昇進披露。そのときの新真打は三笑亭夢花師匠で、ネタは『寝床』。面白かったです。披露目は本当に華やかで楽しかったです。前座も含めて、高座に上がる人はみんな別世界の人に見えましたねえ。
それから年に1 ~2 回くらい深夜バスで東京の寄席に通いました。
当時は、自分が落語家になるなんて、もうこれっぼっちも考えていません。
プロになるのは「特別な人」だと思ってましたよ。確かに落研の高座に上がっていたけど、どちらかというと聴くほうが好きで、要は落語ファンだったんです。僕と、プロが座る座布団の間には扇子が置かれていて、そこに結界がしっかりとあって、あっち側には行けないものだと思い込んでいました。
ただ、一つだけ大きな出来事がありました。新入生の僕にビラを渡して「お笑い好きですか」と落研に誘った先輩が、僕が四回生のときに桂雀々師匠のところに入門して、プロの落語家・桂優々になったんです。雀々師匠の独演会で開口一番で出ると聞いて聴きに行きました。そしたら兄さん、全然変わっていたんです。また入門して一年ぐらいなのに。
何が変わったのか、うまくなったのかどうか、具体的には良く分からないんですけど、とにかく、もう違う存在になってました。雀々師匠の元での修行はたぶん厳しいでしょうし、独演会が多いからどんどん高座に上がっていたんでしょうね。自分を落研に誘った自分の先輩が、結界の向こう側で輝いていたんです。芸に人生を賭けると人間こうも変わるのかと。
とはいえ、そのときは「先輩すごいなあ」って思っただけです。
「自分も落語家に」なんて全く思っていません。就職も無事に決まり、卒業公演というか、落研部員としての最後の高座も、これといった感慨もなく演って、これでもう落語はおしまいだと、聴くのもやめてしまいました。
そんなふうに大学を卒業して、地元の信用金庫に就職したんです。