『シェアする落語 第19回 雷門音助』を開催するにあたり、音助さんにインタビューさせていただきました。一部はご予約特典としてメール配信させていただいています。

インタビューは2017年9月30日と11月12日に行いました。
文責は全て四家正紀(シェアする落語主宰)にあります。

雷門音助
昭和62年11月30日生まれ
2011年 10月 雷門助六に入門
2016年 2月より二ツ目昇進
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(『シェアする落語 第19回 雷門音助』 の記念品 制作:常山剛)


(前回(2)はこちら)

●雷門助六しかいない
信金を辞めて落語家になろうと思い立ったとき、師匠は九代目雷門助六しかいないと決めていました。
初めて聴いたのは浅草演芸ホールです。「寄席の人だなあ」と思いました。
落語はもちろん面白かったけど、それだけじゃなくて、例えば『長短』の型とか、よそでなかなか聴けない珍しい噺とか「雷門ならでは」の落語があるんですよね。なんかそれが好きで。
学生時代から大師匠の八代目雷門助六の音源をよく聴いていたので、雷門の芸風が好きだったんでしょうね。

それとやっぱり、踊りとか、寄席ならではの余芸にも惹かれましたねえ。

ちょっと不思議な話があって。

『人形ばなし』という芸があるんですね。
一人が高座に座って、二人がその背中に回って羽織かぶって姿を消して、後ろから右手と左手を出して、あたかも一人でやってるように演じるという、まあ二人羽織の三人版です。

学生の頃にNHK BSの「懐かしの映像」みたいな番組で、八代目雷門助六の『人形ばなし』を見ていたんです。
そのときは真ん中が大師匠(先代・八代目助六)、後ろに回って右手を演じていたのがうちの師匠(当代・九代目助六)当時は雷門五郎ですね、左手が、現在の春雨や雷蔵師匠。三人一体になって、湯飲みでお茶を飲んだり、扇子使って小噺を演じたりして。
最後は立ち上がって踊りを踊るんですけど、そのとき、右手がすごく綺麗で。
「うわあ、手、綺麗だなあーっ」って。

最後のほうに大師匠が「この手は違う人がやってます」と種明かしみたいな感じで後ろから二人出てくるんですけど、とにかく「右手が綺麗」ってことだけ鮮明に覚えていたんです。
で、寄席に行くようになって、うちの師匠のことが好きになって何度も聴きに行ってるうちに「あ、あの右手の人か」って。僕は師匠の顔より先に手を見ていた (笑)。まあ、手に惹かれて弟子入りというのではないですけどね。

ずっと後の話ですが、この『人形ばなし』を師匠がやるときに、僕が左手やったんですよ(笑)。小助六兄さんが右手で。不思議なもんですよね。

他の師匠方の弟子になることは全く考えてませんでしたね。断られたらまた行く、また断られたらまた行くで、十回くらい行くつもりでいました。当たり前に十回くらいは行くもんだと。取ってもらえない人だっていっぱいいるんですから。

それと、仕事を続けていたら「じゃ、そっちを続けろよ」と断られる。師匠が断れないような状況を作りたかったんで、弟子入りに行く前に信金を辞めることにしたんです。


●職場はすんなり、親は大変
信金を辞める決心をして、大変世話になっていた二個上の先輩に相談しました。次に、僕を一人前の営業にしようとかわいがってくれていた6年くらい上の先輩にも相談して、その次は課長・さらに副支店長・支店長って、ひとつずつ上がっていったんですね。

これが、だれも引き止めないんですよ(笑)。僕が落語好きだってのはみんな知ってて、落語家になるなら、しょうがないねって。

支店長には、一応「1カ月くらいあげるから、もう一回考えなさい、人事部にはまだ言わないでおくから」と言われました。まあでも、気持ちは変わらないですよね。で、支店長も優しいから声かけてくれて、

「どうだ? 気持ち、変わってねえだろ」(笑)
「……はい」

8月末くらいに「じゃあ、俺から人事部に通しておく」と、11月1日の退職が決まって、10月頭に次の人が来てくれて、1カ月で仕事を引き継ぐ段取りになりました。

支店長のOKが出たので、今度は親です。

「噺家になるから、仕事辞めることにした」って言ったんです。

「はっ?」

驚いていました。まあ、そりゃそうですよね。大卒の息子が家に戻ってきて、地元の信金なんて堅いところに勤めはじめて、安心していたところに、いきなり何を言い出すんだと。
父親は、そっから口きいてくれなくなりました。怒っちゃって。怒ったというか、どうしていいか分かんなくなっちゃったんですかね。

ここまでの経過を親に全く話してなかったんです。
信金でこんな仕事しているとか、こんな仕事が大変とか、辛いとか、言ったことがなかった。
最近寄席に通っているとか、そんな話もしない。徐々にそんな話をしておけばよかったのかな。

それでも母親のほうは「まあ、なりたいって言っているんだから」って、父親と僕のとの間に入って、バランスを取ってくれました。

当時は「なんで会社辞めて噺家になるだけで、実の親からこんな犯罪者を見るような目で見られなくちゃいけないんだ」って思ってました。
ほんとに、まるで僕が盗んだか横領したか殺したか、みたいな目で見るんですよ、僕のことを。そんな扱いに納得いきませんでした。
「犯罪でもしたんだったら、そういう表情してよ」って。

まあ、いま思えば「そりゃ、そうだわ」なんですけどね。うちは両親とも落語全然聴かなかったし。
でも当時の僕は噺家になりたい一心ですから、親の気持ちなんて全然分かってなかった。将来自分に子どもができて似たようなことになったら、そのとき親として僕はどうするんでしょうね。うーん。

ずっと後のことですけど、(音助さん出身地のお隣・静岡県島田市出身の)三遊亭遊喜師匠が地元で開催する落語会の前座として高座に上がることになったときに、両親が初めて聴きに来てくれて。親戚まで連れて来てましたね。
このときから徐々に徐々に認めてもらったという感じですね。いまでは、ときどき僕の落語を聴きに来てくれています。


●最悪のタイミングで弟子入り志願
10月の土日休みで弟子入りに行くことにしました。
その土曜日、師匠は新宿末廣亭の夜トリで、翌日の日曜日に広小路亭で独演会だったんです。よしここで行こう。いつまた寄席に出るか分からないし、自宅の住所は分からないし、信金辞めてからなるべく間を空けたくなかったんですね。母親には「土日に弟子入りに行ってくるよ」と一応言っておきました。

何にも知らなかったんですね僕は。夜トリ終わっての楽屋出待ちですから9時以降。
しかも次の日に独演会。
いま思うと最悪の状況でよすね。師匠にしてみれば、もう、めんどくさい。夜遅いし。師匠、夜はさっと家に帰りたい人ですから。ま、これもいま思えば、ですが。

新宿末廣亭の楽屋口のところで待っていたら、師匠と当時まだ二ツ目で「花助」だった雷門小助六兄さんが出てきました。兄さんはカバンを持ってました。翌日の独演会のための荷物です。
そんなところに、手土産に静岡のお茶を持って、

「静岡から来てます。弟子入りしたいです」と話しかけて。
師匠は「あ………」って(笑)

「静岡にいます。信金に勤めていますが、11月1日で辞めます」
「今日は帰れるのか」
「友達のところに泊まります」
「明日はどうするんだ」
「明日は師匠の独演会に伺おうと思っています」。

そこから喫茶店入って、師匠と兄さんと三人で話し込んだんですよ。こんな最悪のタイミングで行ったのに。

「明日は俺の会だから、ちょっと楽屋に上がって、どんなもんなのか見てみるといい。前座もいるから」
で、兄さんに
「(楽屋の中で)立たせとけ」って。

ちなみにそのとき楽屋にいた前座は「瀧川鯉ちゃ」、いまの春風亭柳若兄さんです。

で、独演会が終わった後、師匠が「了承が必要だから、親に電話しろ」と仰って。家に電話したら母親が出て、師匠から直接「おたくの息子さんが弟子入りしたいと言ってますが」、母親は「お願いします」と言ってくれました。

両親と師匠とが直接会ったのは、その数カ月後です。浅草の喫茶店でしたね。浅草演芸ホールでの師匠の出番の後でした。どんな話をしたのか、なぜかあんまり覚えてないんです。
「食っていくのは大変ですよ。僕自身どうなるか分からないような世界なんですから」とかそんな話はしたと思います。

というわけで、2011年10月に九代目 雷門助六に入門しました。